ザッピング

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今日みたいな日

 

お腹のあたり、胸の下らへんに何かがあることを感じる。その質量のある何かのせいで息がそこまでしか吸い込めないようで、呼吸が少し浅くなる、今日みたいな日。

 

あれから5年半、今日みたいな日が何度あっただろうか。

それが誰であるかとか、自分と近いかとか、その人に対する感情がどうかなどは関係ない。誰かが、確実にその瞬間まで生きていた誰かが、前触れもなく、今日がその日だと知らぬままに、余韻もなく終わりを迎える今日みたいな日。あれからずっと、わたしはそれが一番キツい。あっけないほどに突然の死に触れるのが本当にキツい。元気になった、あああの頃つらかったなあと振り返れるくらい元気になったのに、あの頃芽生えた胸の下のそれは今もわたしの中にいて、今日みたいな日のたびにわたしを引きずり込もうとする。

 

2017年のことでわたしが一番つらかったのは、その直後じゃなくて一年以上も後のことだった。それがなぜなのかは未だに自分でも分からないけど、振り返ってみると、どこかが麻痺したまま一年を過ごして、それが融け出したのがそのタイミングだったのかと思う。

乗り越えて元気になって、元気になったと思って、初めて今日みたいな日を迎えた時がいつだったか覚えてはいないけど、その最初の頃は、元気になったわけじゃなかったんだとか、もうずっとこうして波を潜り抜けながら生きていくしかないのかとか、そう思って落ち込んだよ。それから、それに抗わないことを覚えた。落ち込んでもいい、何もしなくていい、全部無視していい、耐え抜けばまたどこかで上がる時が来ることを知ったから。そして今日、わたしは堕ちないように踏ん張ろうとする。そろそろその方法を探そうとしてもいい頃でしょう。落ち込んだっていいんだけど、出来事そのものに傷つかない自分になりたいと思ってもいいでしょう。

 

 

今日は考えることが多いね。

 

 

ジョンウを好きになってからずっと考えてきたことがある。この子がどうしてこんなにも特別なのか。ジョンウは悲しみを知っているからで、心が傷つくことを知っているからで、自分の脆さを理解しているからで、そしてそうでありながらそれに立ち向かっていこうと懸命に模索しているからだ。模索した結果が今のジョンウなら、脆くて儚くて今にも弾き飛びそうな昔のジョンウとわたしはどう向き合えばいいんだろう。どうしてわたしはその頃からこの子と一緒に歩いてこられなかったんだろう。今日みたいな日は、心が一気に弱くなって無性にそれが悔しくて悲しくて寂しくてたまらなくなる。

 

 

6周年おめでとう。心から。

 

だけど、練習生の頃の思い出を振り返る時間に、考えていることが全部出てるような顔をするきみになんて言ってあげたらいいんだ?

 

 

この子がどうしてこんなに特別なのか。それは、2018年デビューだからだ。ずっとずっと「2017」年が基準になって、何をしても、何を見ても、それがあの日の前なのか後なのか意味もなく気にしてしまっていたわたしはジョンウと出会って、ジョンウを見る時間が生活の大部分を占めるようになって、初めて「2017」という数字を気にしなくなった。その数字が消えたんだよ。ジョンウは、そんな話を聞いても困るだろうし、まあ話すことなんてないだろうけど、でもそれがわたしにとってどれだけ大きいことか分かるだろうか。

 

決して抜かずにご飯を美味しく食べること。仕事を終えて帰ってシャワーを浴びて食事して一息つくこと。動画を見たりすること。健康でいること。それから、幸せであること。ジョンウが大事にするものたち。こんな些細なことが幸せだと知っていること。きっと痛みのある時間を過ごしたからこそ、こういうものが大事だと繰り返し言うようになったこと。ジョンウは特別だけど、同時にあまりに特別でない、なんてことないわたしの日常だ。日常を一緒に過ごす、今日みたいな日もひっくるめて。日常にいるのが、他の誰でもないジョンウでよかった。はは、ジョンウも自分と関係ないところでこんな意味付けをされていたら戸惑うだろう。ごめんね。

 

 

わたしは今日も、過程を生きる。今日みたいな日はまた必ずやって来る。次こそダメかもしれない。反対に上手くコントロールできるかもしれない。どちらにせよ、それは過程だ。すべて、最後に分かるだろう。2017年から、何を学んだのか、何も学ばなかったのか、学ぶ必要なんてなかったのか、意味があったのか、なかったのか、何もかもどうでもいいことなのか。過程を生きている限り、波に乗れる日も呑まれてしまう日もそれ自体に一喜一憂する必要はない。

 

今日みたいな日、あと数分で終わる一日に、振り回されることのないように。