ドーム公演、始まったね。
みんな気になってるんだろうなあ。2年前の京セラ公演について書いた記事へのアクセスが急に上がってる。求めている情報はそれではないよね。ごめんね、それは楽しかったころの思い出だ。
今回のドーム公演は行かないし行けない、行きたくないってことを以前に記事にしているけど、あれから2か月が経って、私は結構元気で、毎日普通に過ごしていて、「やっぱり行けたかな」なんて思ってた。
でも今日ツイッターに流れてくる動画見てしまったら急に「あ、無理だ」って思った。今は行かないことにしてよかったって心から思ってる。それが本音。
SWの日の朝に必ず感じたあの昂揚感は、私には二度と帰ってこないのかもしれない。
ああ、でもこの久しぶりの落ち込み具合は、自分でも予想外で、どうしたらいいかわからなくて、ぐるぐる考えながら、今パソコンに向かってる。ライブの日特有のツイッターの空気感がやだ。公演して、レポになって、ジョンヒョンの分までライト照らしてくれてありがとうとか、ジョンヒョンの声流してくれてありがとうとか、そんな、まるで綺麗事みたいに、美しい思い出になっていくようで、耐えられない。
4人には申し訳ないと思ってる。
でも私はやっぱりジョンヒョンが好きだった。と思う。
SWではいつだって、ジョンヒョンしか見てなかった。まあこれは彼に限った話じゃなくて、レッベルのライブでもアイリンしか見てなかったりするから私には元々そういう傾向があるんだけど。
こうなるまで考えたことなかったけど、ジョンヒョンに嫌いなところなんてなかった。ううん、違う、好きじゃないところなんてなかった。ジョンヒョンだというだけで無条件に全てが好きだった。
「本当にジョンヒョンのこと好きだよね」「ジョンヒョンに甘いよね」っていろんな友達に言われるたび、それが嬉しくて誇らしくて、そんな自分が好きだった。そんなふうに人を好きになれる自分が。他人を好きでいることが自分の根幹を成しているなんて変な話かもしれないけど、シャヲルで、ジョンペンであることは間違いなく私のアイデンティティの一つだった。
何かが変わってからしか、失ってからしか気づかないなんて、ありふれた言説で、誰もが自分だけはそうならないようにしようと思っているのに、結局私もこうなってからしか気づけないことが多かった。
失ってからしか気づけないということは、つまりそれはきっと、もう既に失くしてしまったものがいくつもあるということで、何を失くしたのかもわからないことが今の私には一番怖い。
じょんの新しいアルバムにはいろいろなことを感じた。
いつ書いた曲かもわからないのに、歌詞を読んではいろいろなところにじょんの苦しみの欠片を見つけようとしていた。何事もないまま生きているじょんがあのアルバムを出していたら、そんなことも思わずに呑気に聴いていたに違いないくせに。
それでもやっぱりじょんの紡ぐ音楽と、その歌声と、言葉の美しさがすきだと思った。ワッフルを見てハッシュタグを思い浮かべるような感性がまず私にはなくて、身の周りにありふれているもの全てがインスピレーションの源なんだなって思うし、同じものを見たとしても私とは絶対的に違う世界を描写してくれるじょんの感性と言葉がすきだった。
アルバムが出て、そこで改めて気づいたのは、結局じょんの音楽を聴けば一瞬で奪われてしまうということ。本当に、一瞬で、心が持ってかれてしまう。
それは生きていても、そうじゃなくても同じことだった。簡単なことだ。私はジョンヒョンが好き。
だから、ジョンヒョンが生きていないということを気にしないでいることは私にはできないけれど、またジョンヒョンを好きという気持ちをこうやって積み重ねていけば、そのうちきっとそれは些細なことになって、穏やかな愛だけがそこには残るのかもしれない。
痛みを薄れさせて前を向くということは、痛みだけがジョンヒョンが生きていた証というわけではないということだよね。
本当はじょんの幸せを信じたいんだけど、やっぱりまだそれはちょっと難しい。でもこんなふうに前を向けそうなヒントを掴みながら、この2か月を過ごしてきたつもり。
それでもいよいよドームが始まったらモヤモヤしてしまうんだなあ。自分の気持ちを持て余している。じょんのそばにいたいと思えば思うだけ、SHINeeとの距離が開けてしまうようなそんな不思議な感覚。そうしてまた今回の公演に行ったシャヲルとの間にも距離が生まれていくような気がする。
行ったら行ったで、「行ってよかった」って言えてたのかもね。