ザッピング

チャンネルはころころ変わる

最近のこと⑨

 

 

今日とある絵を見た。象の絵。油絵として描かれたその象は少し悲しげな目をして水辺を歩いていた。水辺というよりは波打ち際のような描かれ方だった。なぜか分からないけどとても惹かれた。描かれた方とお話する機会があった。細みの可憐な女性だ。これから追えたらいいなと思って名前をしっかり覚えたはずだったが、帰ってきたら忘れてしまっていた。到底無理だろうと思ったのに、ツイッターで呟いたらフォロワーさんが見つけてくれた。忘れたままにしてしまえばきっとそれまでだけど、これは出会いだと思う。作品とわたし、その方とわたし。こんな一つ一つを拾い集めて生きていく。

何もない土曜は泥のように眠る。病気なんじゃないかと思うくらい起きられなくなる。たぶんわたしは人より睡眠時間が必要だ。仕事は楽しい。自分に合ってるとか合ってないとかは分からない。まだ4か月目なのに案件を抱えて自分の裁量で判断する場面が多いということも楽しさに関係していると思う。他の会社のことは分からないが、とにかくうちの会社は人がいない。もちろん責任は多い。上司や先輩はそんなこと言わないし、きっと万が一ミスしても理不尽に叱責するようなタイプではないけど、それでも判断がかかる人差し指がマウスをクリックするとき、鼓動は不気味に早く打ち続けている。それでもとにかく毎日楽な気持ちだ。毎朝きちんと起きて満員電車に揺られる、「社会人」という身分を手に入れる、人様に恥ずかしくない、たったこれだけでわたしの自己肯定感は飛躍的に上がった。2週に一度東京に来る父と食事をする。そんな習慣がかれこれ5年くらい続いている。今までは別れ際に「頑張れよ」と言われていた。聞き流しているようで胸にのしかかるその言葉を言われることがなくなった。頑張らなくてもいいんだと思う。「いつもの言葉」がない別れ際、本当はまだ慣れない。

最近本当はニュイを追うことをやめようと思って、あえてツイッターから離れていた。わたしは結局じょんが好きだ。それが、わざわざソウルまで行ってコンサートを見てやっと気づいたことだった。胸を焦がすような思い、名前を呼びながら胸がいっぱいになる感覚、このために生きているんだと思わせる歌声、全てが違った。わたしはその全てを覚えているのに、あそこにはそれがなかった。周りのファンはステージを見て泣いているのに、わたしだけそこまでの思いが込み上げない。それがどれだけつらいことか知らなかった。取り残される。心に突き刺さる痛み。わたしは二度とああやってコンサートで感動することはないんだと。ステージ上の一挙一動に揺さぶられている、隣にいるこのファンのように、愛を込めた呟きで溢れているコンサート後のTLのように、そんな気持ちになることが二度とないんだと。そうやってわたしは壁を作って一人になる。でも同時にとても安心するのだ。わたしはまだこんなにもじょんが好きだと。じょんが一番だと。宝物のような思い出が自分の中には残っていて、悲しみも痛みもその思い出たちが存在するという証なのだと。誰も分からない、誰にも分からせないし触れさせないこの気持ち。奥に奥にしまっておく。結局なんとなくフラッと帰ってきたからまだもう少しニュイを追ってみる。迷っても写真を見て帰ってこられるくらいには好きなのだと思う。まだ続けるのがラブとしての思いなのか、オタクとしての意地なのかは分からない。分かるのは限界がいつでもわたしのすぐ横を歩いてるということだけ。

自分の心の整理にかかりきりでいるうちに3人もただなんとなく見送ってしまったことを本当は少し後悔しているのだ。心配はしてないけど。頭を刈り上げた3人の写真を見ながら、じょんを見送らなければいけなかったとしたらどうだったかなと考える。きっと心配と不安と悲しさで気が狂ってたと思う。画一的な迷彩服も、想像しうる生活も、そして人を撃つということ自体からもっとも離れた場所に感性を持っていた人だから。

象の絵を見たからか、色が見たいという欲求が今日は強い。最近美術館に行けてなかったけど、次の週末は久しぶりに行ってみようか。色で溢れているものはわたしの心を満たすような気がする。あの感覚が好きだ。

最近は本を読んでいる。東野圭吾の『悪意』、キム・ヘジンの『娘について』、そして今はフロイトの『夢と夢解釈』だ。少し難しくて分かりにくいけど、そういった部分はもうすぐ超えるはずだ。そうすれば少しは読みやすくなるだろうと期待している。主人公に感情移入の激しい読み方をするから、その人に裏切られるような話は嫌いだなと思う。それからBTSの最新アルバムが今になってじわじわと来ている。彼らの歌はやっぱり特別だ。ジミンはいくつの声を持っているんだろう。

結局レッベルを好きでいるときがわたしは一番自由だと思う。本当は早く限界が来ることをどこかで待っているのだ。楽になりたい。何からなのかは自分でもよく分からない。失われた未来ばかり数えながら過去に生きるのか。たとえばこの先誰かと結婚したりしても、わたしはそうやって生きていくのだろうか。その人にすらも分かってもらえないし、触れさせたくないような気持ちを抱えながら。想像がつかない。計り知れないくらい遠くにいる人の死がこんなにも自分の人生を変えることがあるということを知らなかったのだ。