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私にとってのミュージカル『フランケンシュタイン』

 

フランケンシュタイン名古屋公演、行ってきました。

2月15日ソワレ、安定の中川×加藤回です。

 

率直に言って、すごかった。東京公演が終わって自分なりに出した答え、私の中の『フランケンシュタイン』とビクター論が全部壊された。一幕、会いたかったビクターはどこにもいない。足元がガラガラと崩れていくような気がしてとても心許なかった。

iamyu.hateblo.jp

 

 

私は、ビクターに夢を見すぎていたのかもしれない。

ビクターが好きなあまり、良い人だと勘違いしていた。15日のビクターはただの科学者だった。自分の研究と理想だけを何よりも大事にしていた。

命を得た怪物にルンゲが襲われているのを、ビクターは部屋の隅から腰に手を当ててじっと見ていた。今この瞬間危険に晒されているルンゲより、生み出したばかりの怪物がどう動くのか観察することの方が大事なようだった。そうして怪物を殺そうとする時も、ルンゲが殺されたからそれが直接の動機となってというよりは、単純に失敗作だから壊さなければいけないというふうに見えた。挙句の果てには窓から逃げていく怪物を、わざと逃がしたようにも見えて呆然とした。「アンリーーーーーー」の叫びからは、思い通りにならないことへの怒りと焦燥が感じられた。

 

29日の東京楽では、アンリの首を抱えて実験室に帰ってきたビクターはぐちゃぐちゃだった。もう一度アンリと共に生きたい、生きるんだ、今生き返らせてやるからな、といった悲痛が伝わってきて、悲しみで壊れてしまいそうなビクターを抱きしめたくなった。なのに名古屋で見たビクターは涙を流すどころか天を仰いで不敵に笑っていた。彼が笑うたび、応えるように雷が光った。親友の首はあくまで実験材料でしかなく、「偉大なる生命創造の歴史が始まる」こと、そしてそれを始めるのは自分だということ、自分こそが創造主になるのだということに興奮していた。

それでも興奮して歌いながら機械にスイッチを入れて歩き回るビクターはやはりかっこよかった。理想を手にする、夢を今にも形にしようとしている瞬間のビクターはただひたすらにかっこよくて、そんなビクターに会えたのが嬉しくて「アンリが犠牲になってくれたおかげでこんなビクターに出会えた、ありがとう」と思ってしまう自分に気づいた。狂っているのはビクターでもアンリでもなく、他でもないわたしだった。

 

フランケンはあまりにも展開が早いので、唐突な心変わりと思えるシーンがいくつかあって、例えば怪物が復讐としてエレンを殺した挙句、生き返らせるための実験機具も壊しておいたことに気づいたビクターがさすがに我を失って早く殺してくれ…ってなるのに、その次の瞬間にはマント羽織って怪物討伐の先陣を切るところとか。でもマントに袖通してバサーッてしながら舞台奥から険しい顔して歩いてくるビクターめちゃくちゃかっこいいんですけど……

「僕はなぜ」でアンリを見殺しにして実験に使うか、親友を助けるかで散々迷っておいて、場面が変わった裁判ではやっぱりアンリを助ける証言をするのも割とテンポの速さに驚く。「アンリを死なせたら僕は殺人者」だから、「殺人者」になりたくないから…?でも親友の首を使いたい衝動に駆られるビクターも、やっぱり親友を助けるための証言をするビクターも、全てを悟りきった親友にもう一度ちゃんと話すことを要求して焦るビクターも、全部が真実だよなと思う。人間って一面だけじゃないから。そこに客観的な矛盾がどんなにあっても、本人の中では全てが両立しうる。

 

「アンリを死なせたら僕は殺人者」と歌う前に、既にビクターは一度殺人を犯している。金に目がくらんでウォルターを殺した葬儀屋を「カッとなって殴った」ビクター。これってサラッと流されていくけど、実はここがビクターの本質というか、私がビクターを好きだと思う要因のような気がする。例えばステファンのような神(余談だけどこれって少なからずキリスト教的世界観が入っているから成り立つ話で、たぶん他の宗教的観念だと全然違ってくると思うから、やっぱり韓国で生まれた理由が分かる)を信じる普通の人間からしてみれば、「生」と「死」という神が司るとされるものを操ろうなどというビクターは到底理解しがたい、神を冒涜する存在なんだろうけれど、脳が欲しかったのは自分なのに不正義を許せなくて葬儀屋を衝動的に殺してしまうあたり、誰よりも「生」と「死」という「命」を大事に扱っているのはビクターなんだと思う。

あそこで殺されるの物語上ウォルターじゃなくても、名前のない人でいいのにな…失ったのがウォルターだったことで、たぶんまたビクターは自分に関わることで他人が呪われるという思いを強めたんじゃないかな。悲しい。

 

人間のエゴに絶望して研究をやめてしまったアンリと、どんなに人から信じてもらえなくても「生」を生み出そうとするビクター。生きることが正しいと捉え続けるビクターの姿はわたしにとってやっぱりどこまでも眩しくキラキラしている。自分はアンリ側の人間だと突き付けられる。

 

 

うーんビクターに肩入れしすぎ?

ビクターを好きだという気持ちと、中川さんを好きだという気持ちが混ざって、どうしてもどこかにビクターを信じたい思いが出てきてしまうから、単純な感情移入というよりは、何をしても味方になりたいし好きなところを見つけたくなってしまう。

たぶんジュリアもこんな気持ちでしょ?ジュリアはだいぶ盲目だなあと思うんだけど、子どもの頃から一緒に過ごして、「ビクターのしていることへの理解」より「ビクターという男性を好きな気持ち」の方が先にどんどん成長してしまったんだよね。そういう、どんな人でも一度好きだと思ってしまうとなかなか切り替えられないことってよく聞く話だし。そしてエレンも、ビクターのこと本当の意味では理解していないことがすごく出ているなと思う。もちろん肉親としての愛情はあるし、たった2人きりの家族ということも加味して世間一般のそれよりずっと強い想いなのは伝わってくるけれど、どこかでビクターのしていることを遠巻きに見ているというか……ジュリアやルンゲみたいな「何をしても支持したい」という気持ちと、エレンみたいに「家族として愛しているけれど本当に理解はしていない」というスタンスのどっちが良いとか悪いとかそういうことが言いたいのではないです。ただ混乱しているさなかに「アンリの首が欲しいのか」と感情のままに責められるビクターは傷ついたんじゃないかなあと思うだけ。その後ジュリアとルンゲがフォローするから余計に。ていうかあそこで「ジュリアお嬢様と私はお坊ちゃまの味方です」ってエレンの名を出さないあたり、ルンゲもエレンのそういうところ分かってるんだよな…

 

だからこそ私はビクターにそばにいてほしいと恐怖を訴えたジュリアを放置してみすみす失ったことだけは許せないんですけど!!!(突然の怒り)でもビクターはジュリアのこと愛していたし、ちょっとというかだいぶ不器用で捻くれてて分かりづらかったけど、「今は私のことだけ考えてほしい」って言われて素直に「ごめん…」って抱きしめるところも、ステファン行方不明の知らせに怯えるジュリアの手をそっと握りしめてあげるところも、ビクターのビクターだけのさりげないけれど暖かい優しさが分かって泣いてしまう。ビクターとアンリのことはいろんな人がいろんな角度から推してるので、私はどこまでもビクターとジュリアを推したいです。

 

ジュリアは強い。久しぶりに再会したのにあんなに訳の分からない態度とられてすごく傷ついたはずなのに「明日は振り向いてもらえるかもしれない」と泣きながら笑う。そしてカトリーヌはもっと強い。惨い人生に死がよぎりつつも、「明日は自由になれるかもしれない」と生きることを誓う。ジュリアもカトリーヌも「明日」に見出す希望と、その希望を信じる強さがあるから、私はこの2人の女性が同じ女性として好き。

 

こういう対比というか共通項みたいなものが散りばめられていることにやっと気づいた。

「抱きしめてあげるから」と言ってくれる人のいるビクターと、抱きしめられる「夢」をもう一度見たいと願うだけの怪物とか。ああでもどちらもその時点でもうすでに「抱きしめられること」が叶わないのは同じなのか。だからお互いを求め合うのかな。それが殺してやるとか復讐してやるとか、そういった気持であったとしても。

 

それにしても15日は、ビクターのサイコパスみが強かったおかげでその分「後悔」での悲しみや後悔がブワッと伝わってきてすごく泣けた。物語としての一連の流れがちゃんと理解できたような気がする。

「怪物」ではなく『フランケンシュタイン』がタイトルロールであることに大きな意味があると思う、でもそれが何なのかよく分からないと前の記事で書いたんだけど、「後悔」を聴いてると「挑み、驕り、迷い、あが」いたビクター・フランケンシュタインが「弱さを見つける」ことがこのミュージカルの主軸なのかなって思えた。

でも怪物は直後の「傷」でビクターのことを「本当は弱いのに」と歌ってる。ビクター自身が自分の弱さに気づくよりずっと前から怪物、いやアンリはビクターの弱さを知っていたんだ。「後悔」の「星になってあの空に抱かれたかった」という歌詞と、「傷」の「星になりたがっていた」という歌詞もリンクしていて、ああビクターのことを本当の意味で理解していたのはアンリだけだったんだなあと思う。

中川さんを好きになってしまったからということを差し引いても、3回観た中で一番「ビクター・フランケンシュタイン」の話であることが強い気がした。アンリはあくまでビクターの次というか。

 

この考えに至ったので、怪物がアンリかどうかとかビクターはそれに気づいてるのかとかは比較的どうでもよくなっちゃった。

ただ演じている人たちがどうなのかは分からないけど、怪物の顔がアンリであることってビクターにとってはかなり大きいだろうなと思っている。アンリとして命を与えて、期待していたような「アンリという人間」ではなかったショックはもちろんあるだろうけど、それでもパッと目が合った時に良く知ったアンリの顔があるってすごく大きいよね?動揺すると思う。違う中身だと頭では理解していても、顔がその人だったらそこから受ける印象は強くて引きずられてしまうんじゃないかな。

 

それにしてもフランケン観ると、神経が昂っちゃうのかその日眠れなくなるんだよな。

本当は、自分の解釈が間違っていたらと思うとめちゃくちゃ怖い。ミュージカルに限らず、エンタメは作品が公になった時点である程度は受け手に委ねられると思うから、どんな感想を抱いても間違いなんてないのは分かっているけれど、どうしても怖い。たぶん基本的にこういう観る度に演技パターンの変わるような作品を鑑賞するのに向いてないんだろうな…

正解が欲しい。本当は全部聞きたい。でもそれで違ってたら自分で自分にショック受けるし、他人の感想見て自分と正反対のこと書いてるとまたそれもショックだし(でも見る)ただのめんどくさいオタクまるだし………だからDVDのオーディオコメンタリーも怖いよ!たぶん推しのやることは正しく受け取らなきゃいけないっていう強迫観念があるんだよな。オタクめんどくさ~~~~~~~

中川さんは4通りの組み合わせが醍醐味っておっしゃってたけど、たぶん違う組み合わせで観たらパニックになってたろうからあきかずだけ観続けたのは正解ですね。

初演観てないから分からないけど、観る時の年齢や生活とかメンタルなんかによっても着目点が大きく変わりそう。

 

15日の中川さんはやたらとマントブヮサーーーってするのを多用しててすごくかっこよかった…マントにも神経通ってる?って感じだった。マントさばきがすごい。あのグリーンのもいいんだけど最初の軍服もやっぱりかっこいいし、というかジュネーヴ行く前の戦場でアンリと初めて会った時とかルンゲをいじるところとか最初のいきいきした明るいビクター好き。あと髪の毛くるくるなのすき。素肌にネクタイしてるところたまらん。

「ただ一つの未来」ではビクターが先に手を出して理解したアンリが重ねた手をビクターがグッと握るんだけど、反対に「君の夢の中で」は微笑んだアンリが先に手を出して待っていてぐちゃぐちゃなビクターがそこに手を重ねてアンリが握るの…つらい……

 

そういえばすごく疑問なんですけど、要所要所で光のあたる薔薇の花(あれ薔薇だよね?目が悪い)にはどういう意味があるんでしょうか。「生」の象徴?どなたかご存知でしたら教えてください。

 

いつか韓国版も観てみたいけれど、でもきっとどなたを観ても中川さんのビクターが恋しくなってしまうんだろうな。

 

 

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