ザッピング

チャンネルはころころ変わる

 

 

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表参道のはずれ、こじゃれた人たちのざわめきの聞こえない一画にその美術館はあった。庭園の奥、鯉の泳ぐゆったりとした池一面には真っ青な空と岸辺に生える木々から伸びた葉の一枚一枚が映っていた。鯉が泳ぐたびに水面に波が立って、風が吹いたわけでもないのに葉が揺れるその光景はあまりに美しく、しばらくの間ぼーっと眺めていた。

 

死にたいなあという思いばかりが浮かんでは、消えることなく溜まっていった。
「死にたい」とか「死ぬほど~だ」といった類の言葉を絶対に使わないと自分で自分を縛って過ごしてきた。どんなに軽い気持ちでも、いや軽い気持ちだからこそ、あれから一度もわたしはその言葉を口にしてない自信がある。相反するように、死んでしまいたい思いは心の中に溜まって池を作り、週末になるたびにわたしを引きずり込んだ。


じょんの分まで生きなくちゃいけない。

強く強く生きていかなきゃいけない。

 

自分で自分を気負って、そのテンションのまま就活をした。あの頃ばんたんばかり聴いていた。Not Todayを聴いては、死ぬのは今日じゃないと腹に力を込めて、Tomorrowが流れれば、明日を掴むんだと拳を握った。
仕事に就いて落ち着いた今になってバランスが取れなくなった。あの直後に抱いた、生きなくちゃいけないという強迫観念にも似た思いは今はもうない。

 

月に1~2回のカウンセリングは確かに効果があるようで、死にたさがあとからあとから湧いてくるような感覚はだいぶ薄れてきたと思う。「いつか生々しさなく物語れるようになった時、どんな顔でどんなふうに立っているんでしょうね。楽しみです」とカウンセラーの先生が言った。嬉しいのに、想像すると怖くなってそっと目をつぶる。じょんを穏やかに思えるようになることは、じょんをすきだった気持ちを忘れることと繋がるような気がして。

 

生きていくことと、死ぬということをたくさんたくさん考えてきた。じょんがいなくなったことではなく、じょんが自分でその終わりを選んだことがわたしを考えさせた。じょんはわたしの生だったのに、今はわたしの死でもあった。じょんはわたしを照らす光だったのに、今はわたしを飲みこもうとする闇でもあった。見守っていてくれているなんて思えないし、見守っていてほしいとも思わない。いつもただ目の前に立って、わたしに生きることを突き付ける。

 

芸能人がラジオで言っていた。「目標はよく生きて、よく死ぬこと」だと。

よく死ぬなんてない。死は平等で、ただの終わりだった。

 

 

衝動ではなかった。全て計画されたものだった。いつから心に秘めていたか。

 

 

じょんが目の前に立つ。どんなに努力しても、これから先何十年と生きたとしても、絶対に叶わないことがわたしの生きていく日々に確実にあるということ。それでもわたしを見守れるところになんて行かないで、いつもここにいてほしいと思う。