ザッピング

チャンネルはころころ変わる

ブルー

 

 

夏の終わりが近い。肌にまとわりつくじっとりとした東京の熱気が、暑い暑いと思いながら、それでも嫌いではない。夏が終わることへの寂しさを秋が運んでくる度に、私は決して夏が嫌いではないのだと感じる。この夏は私が初めて体験する「繁忙期」というやつで、ブログを書く暇も読む暇もなく、毎日残業しながら、それでも休みになればソウルへ飛んだりSMTを訪れたりしていたらまたたく間に過ぎ去っていってしまった。

秋が来る。風が変わったら祭の「ファイナル」だと、レッドベルベットはもう既に次回のカムバックを予告している。

今日も強烈な日差しに肌を舐められながら東京の街を歩いていたのに、数か月先にはコートとマフラーを纏って同じ道を歩くのだろうと考えると少し不思議だ。冬が今年も誰の下にも公平にやって来るだろう。2回目の冬。2回目の12月。

少し前からカウンセリングに通い始めた。

毎回、来たものの何を話せばいいんだろうってなるけれど、優しく促されるとするっと言葉が出てくるような感じがする。わたしがじょんについて考えてきたことを「世界観」という言葉で表現してくれる。「物語」ではなくて「ストーリー」という単語を使ってくれる。その言葉選びが心地いいなと思う。わたしが一人で誰にも触らせないように守ってきたものを邪魔しないでいてくれる。じょんに感じる苦しさをケアしていく作業に「よかったら伴走させてくださいね」と言ってくれたのがとても嬉しかったからとりあえず通ってみようと思った。

ここまで頑張ってきた。いや別に頑張ってきたわけではなく、かといって何でもなかったわけでもなくて、ただ他に楽しみを見つけながらやってきたつもりだけど、苦しさがちょっと溢れ出てしまった。このままではまずいと思った。専門家に頼ってみるのもアリかなと考えてカウンセリングに行ってみることを決めた。けど本当は苦しさが苦しさじゃなくなる怖さも強い。この苦しさの中にじょんがいるから。あんなに輝いてた幸せそうなじょんを見てきたのに、あの最後の言葉はいまだにわたしをあの日に縛り付けているのだ。

もうやめようと思うのに、また先週もソウルへ行ってミニョンのミュージカルを見たら楽しくなってしまった。それが苦しさの解消になどならないことを知っているのに、ただコップのふちをちょっと引き上げただけなことに気づいているのに、目を背けてまたミニョンに会いに行くだろう。

ツイッターの人たちが何かを批判しているのを見るのがつらい。スキャンダルがなんだ、事務所がなんだ、なんだと言うのだ。みんなみんな生きてるじゃないか。どうしてそんなことが分からないんだ。そんなにあっさり忘れていくのか。なんでもないことだったのか。同じレベルで悲しんでくれなくていい、せめて学んでほしかったと思うのに、みんなわたしを置いていく。

死という事実そのものより、自らその選択をした彼の最後の決断がわたしを引きずり込む。鬱病に気づかなかったことには驚いたけど、彼が鬱病だったということには驚かなかった。病気の彼と元気な彼は違うんだよと言われるけど、鬱になる要素がずっとどこかにあって、それがグラデーションのように続いて、わたしが好きだったじょんや、衝撃的な歌詞を生み出していたのだとしたら。そう思うと病気の彼と元気な彼を分けることができなくて、何度巡っても他の結末がないことに絶望する。

光は闇で、闇は光だった。光があるから闇ができるのではなく、闇があるから光は生まれたのだった。

既にじょんの年齢を追い越した。じょんは立ち止まったままなのに、わたしは進む。一分の隙もなく、じょんでいっぱいになれたらいいのにと思う。苦しさがわたしを覆ってもそれが普通になるなら、それはそれで満ち足りるのかもしれない。